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毎日日記を書くことを目標にしています

なんか暗い詰め合わせ

 とある人の文章が心底嫌いだ。

 本当に嫌いすぎて定期的に嫌いだと言わないと耐えられなくなっている。なんでかしらないが、本当に嫌いだ。

 一度ブチギレてそのnoteへの怒りのお気持ち長文2000字を認めたが、流石に送りつける前に冷静になったので送っていない。それまでも違和感を覚えてはいたがそのnoteが嫌いの原点なので決して嫌いだとわかっていたのにわざわざ見に行ったわけではない。決して。だが、それ以降も定期的にブチギレているので、もはやあのとき送りつけておけばよかったと思う程度には嫌いだ。最近は見に行かないようにしているが。それでもときどき公式で目にはいるから毎回あら探しをしている自分に嫌気が差す。ちなみに余裕でFF外だ。嫌いな人をそこにおいておく意味はない。

 そんなことはどうでもいい。

 なんでその人の文章が嫌いなのかということをかんがえると、他人の創り上げたものに対する取り扱いが気に入らないのだと思う。リスペクトがかけている気がして。noteの引用の仕方が本当に気に食わないのだ。仕事じゃないんだから、思い入れがないなら取り上げなければいい、noteを紹介するならその良さがわかってからにしてくれ。百歩譲って取り上げるなら、"良さがわからん"の前置きはいらないだろ。もう数ヶ月読んでないのに文句がありすぎて覚えている。精神に良くない。

 noteでもそう、観戦記でも似たようなことが言えると思う。やはり他人が作ったものがその土台に有るのだ。観戦記では、基本的に牌譜がすでにある。そこから何を取り上げるのか、どんな要素を付与して仕上げるのかというのがおそらく牌譜から観戦記への移行だと私は捉えている。観戦記は解説文調でも読み物としての要素が強くても筆者が主役のエッセイ調でも面白いと思うけれど感情の代弁は何となく気持ち悪いなと思ってしまう。あるいは視聴者の代弁も、あまり好みではない。これは好みの問題だと思うが。

 先日、タイムラインで正しい言葉の使用が話題になっていた。その成否については答えが出ない議論だと思うが、私は正しい言葉を使うことは自分の意見を正確に伝え他人との齟齬をなくす手段だと思っている。だから、文章を書くときになるべく間違った言葉を使わないことはより読みやすい文章になるのに加え、自衛になると考えている。変な言い方だが「文章が気に食わない」と突っかかってくるやつは私のように世の中に存在するわけである。noteだろうがポストだろうが、基本的に文章で判断される媒体だ。対面したときならば口調や顔色で情報が増えるが、インターネット上ではあくまで文章でしか意思を伝達できない以上より丁寧に言葉を精査し、正しく使うことで揚げ足取りに使われることは減るだろう。私みたいなやつに。

 

 こんな文章を最後まで読んでくれた人がどれだけいるかという話だが別の話題を。日本プロ麻雀協会主催fuzz cupの投票をやっている。去年も思ったが応援って数字を出すのは難しい。票にすると余計に、私の応援には何の力もないとしみじみと感じさせられる。せめて金持ちであればよかったが。真面目にボーダーを計算していたので大体見えている。これで大外れしたら逆に面白い。60000円20垢課金すればたぶんみんな推しを放送対局に連れていけますよ?まぁ無理なんだけど。本気でやるなら課金勢に「〇〇さんに投票するから▲▲さんに投票して」の交渉をガチっておいたほうがいい。やる人がいればの話だが。

 応援されることって私は経験がないのだが、辛いんじゃないかなって時折思う。たとえば結果がわかっている放送対局で、負けるとわかっているのに応援されたらどう思うんだろうと。だめだと思っているものを、決まっているものを応援されるのって嫌じゃないのかな。実際「むしろだめだとわかっているのに応援の言葉をかけられるのがきつかった」と言っていたのを見たことがある。そういう状況もあるよな。だから、私の応援なんて受け取らなくていい、ふと欲しくなったときにすこし耳を傾けてくれたら十分すぎる。ねろ